緩和の猫画像を添えて。
昨日は未だに信じられないような事件があった。
こんなことが日本であるなんて……ご冥福をお祈りいたします。
事件後、想定より悪意のある憶測ツイートは目につかなかったけど、逆に善意のデマが多くて辟易。
「●●さんがこの件に関してこう発言したらしい、ひどい」とか「病院にクレームが殺到しているらしい、許せない!」とか。
「直接聞いてないけど知人に聞いた。あの人ならこういうことを言うに違いない」ってのはだめだし、「らしい」で憤って周りに広めてはだめ。必ず事実を確認してからにしてほしい。
これは今回のような大きなニュースはもちろん人間関係にも言えることで。自分が何度かやられたことがあるのでなー。
何年かぶりに会った知人に「あのとき○○だったんでしょ?」と全く事実と反することを確認されて、はぁ? となったことが多々あり。直接こちらに聞いてくれれば否定もできるが、当時は誰も自分に聞いてくれなかった。あの頃みんなそう思って私と接していたのかあーとなかなかにくやしい(まあ、そう思われる要素があったか、発言者よりも信頼度が低かった私の不徳のいたすところでもございますが)。
さて。
Twitterだとソースを出さなくても事実だとして受け入れられるのなんでだろう。平易な言葉だからそれだけで“理解”できてしまうためだろうか。「分かる」というのは快感なんだよね。
同様に、昨今のニュース記事で“ネットの反応”と称してカギ括弧付きの話し言葉が記載されるが、一切ソースはないのもなぜなのか。あれではニュースではなく「ネット上ではこういう言葉があるに違いない」という創作文でしかない。「ソースを出せ」というのはもはや老人会のしぐさか。
今、メタバース界隈()でSNSが発展してきていて、今までのネットとは違うもうひと段階上の「空間での偶発性」を目指していると思うんだけど、Twitterの昨日様子はもとより、知人でもないアカウントに突然怒りを持ったことばで絡む人が多数存在しているのを見ていると、開発者さんたちが思い描いているような煌めく世界は実現しないんじゃないかなあーーーーと暗澹たる気持ちになってしまう。
……と、やってもいないのに心配になる一般人でした。
